徒然(つれづれ)歳時記 

☆ リニューアルしました。!!                                                                                                   日々暮らすことは、毎日がドラマです。 『つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』 ・・・   つれづれなるままに、日暮らし、パソコンにむかひて、心に写り?ゆくいろいろなことを徒然歳時記に書き込めば、世の移り変わりに心が騒ぐ。・・・・・                                 ◎カテゴリーは                                                                                                           ・自然・・・・我が家の庭や畑の花や木、それに虫たち ・歴史・・・・「温故知新」 紀行文や歴史の紐解き ・音楽・・・・歌の歌詞に込められた心の響き ・鉄道・・・・「撮り鉄」と「乗り鉄」 ・ふるさと・・・・岡崎市上地町界隈など

歴史

郷土の偉人 織田完之 No.25: 織田完之と松本奎堂 人生の軌跡の比較 :2023.1.30号

さて、前号にて完之が思想的・精神的つまり生きる支柱・導師として崇拝してきた松本奎堂が、天誅組を組織し国家を憂い、壮絶な戦いというか、皮肉にも決起が早く幕府の追討軍と戦い鷲家口にて戦死してしまった。完之は奎堂の勤王思想を継承し、幕府を倒し世直しを実現すべく、己の力で切り開いていかねばならない立場となった。

 

◎碑文には次のように記されている。

元治三年廿三出江戸赴常陸視戦争著常野兵談翌年西遊遭房拘岩國三年明治二年解還』

 

これからは、この碑文に沿って検証していくこととする。

 

1,織田完之と松本奎堂との軌跡の比較

 

歴 年 年齢   織田完之           年齢     松本奎堂 

1831 天保2                    1歳 刈谷城内の藩邸にて出生

1837 天保8                   7歳 父から漢学を習う

1841 天保12                    11歳  奥田桐園の門人となる

1842 天保13 1歳 額田郡高須村で出生     12歳

1843 天保14 2歳 両親死亡          13歳

1844 弘化元  3歳 岩瀬家で養育される     14歳

1845  弘化2  4歳                   15歳 伊藤両村に師事

1846 弘化3   5歳                 16歳

1847 弘化4  6歳                17歳 柔術師範渡邉に入門

 疱瘡大流行

1848 嘉永元  7歳 論所堤防破壊          18歳 左目負傷

1849 嘉永2   8歳                   19歳

1850 嘉永3   9歳 岩瀬啓介死亡            20歳

1851 嘉永4 10歳                  21歳 江戸着、大槻・羽倉門下

1852 嘉永5 11歳 岩瀬医院の書生          22歳 昌平学に入る

1853 嘉永6 12歳 早川文啓塾に通う         23歳 謹慎

  米艦隊浦賀に来る

1854 安政元 13歳 早川文啓塾に通う        24歳 父の教授を助ける

1855 安政2 14歳 早川文啓塾に通う        25歳 再度昌平学に入る

1856 安政3 15歳 早川文啓塾に通う        26歳 昌平学に帰属

           曽我耐軒の講義聴く

  吉田松陰 松下村塾開く    

1857 安政4 16歳 早川文啓塾に通う        27歳

曽我耐軒の講義聴く

沓掛村 伊藤両村塾に入塾

1858 安政5 17歳 沓掛村 伊藤両村塾        28歳

  安政戊牛(ぼご)の大獄

1859 安政6 18歳 名古屋 松本奎堂塾に入塾     29歳 石町 森島てつを娶る

伊藤両村死亡

 

  吉田松陰 処刑 

1860 万延元 19歳 松本奎堂 不如学舎塾長    30歳 甲太郎誕生

1861 文久元 20歳 奎堂 完之の上京許さず     31歳 大坂松岡寓居

1862 文久2 21歳 中之郷で医業開業         32歳 淡路に行く

  和宮 降嫁(文久元~2)

  寺田屋騒動

1863 文久3 22歳 咲江(17歳)と同棲        33歳 天誅組総裁

      8月14日京都脱出  

                              9月25日 鷲家口の戦いにて戦死

 

2,品川弥二郎・・・織田完之との面識・縁

碑文に書かれている完之の軌跡の中で、“品川弥二郎”との係わりが、彼の人生にとって大きな変革をもたらすこととなる。

そこで、少し“品川弥二郎”と完之の縁について触れてみる。

 

 ◎織田完之が、師と仰ぐ松本奎堂が亡くなったのち、草莽の志士として、更に江戸(東京)に出でて活躍するに際し、長州藩品川弥二郎との縁がなければ達することは出来なかった。

詳しいことは後述するが、参考までに品川弥二郎に関して概要を記してみる。

天保14年生まれであるので、完之よりも一歳年下である。

松下村塾では、当初吉田松陰の門下生久坂玄瑞の通い番(使い走り)のような仕事をしていた。完之が松本奎堂塾の使い番をしていたのと同じような役目(仕事)であった。

万延~文久にかけて、尊王攘夷を掲げて活躍する草莽の志士が京に集まり、国難に如何に対応すべきか、藩を越えて命を惜しまず活動していた。

久坂玄瑞と松本奎堂は尊王攘夷派(討幕派)の中心的人物であったので、彼ら互いのグループの往来も緊密に取らねばならなかった。

その使い番(使者、使い走り)として、品川弥二郎と織田完之は面識を持ったのであろうと考える。歳も二人とも20歳頃であった。

この二人の偶然ともいえるめぐり逢いが、不思議な縁となり、完之の明治政府での活躍の場となっていくのであった。

郷土の偉人 織田完之 No.24: 勤王(草莽)の志士への道(その14) :織田完之と松本奎堂の関係 まとめ:2023.1.3号

 

 前号まで、国難を憂い義挙し吉野の山に殉じた松本奎堂と 彼の教えに心酔し己も参画しようと完之の軌跡を追い求めてきた。

この章では、奎堂と完之の軌跡の概略を比較し纏めてみた。

 

   歴    年      年齢   織田完之        年齢     松本奎堂 

1831 天保2                    1歳 刈谷城内の藩邸にて出生

1837 天保8                     7歳 父から漢学を習う

1841 天保12                    11歳  奥田桐園の門人となる

1842 天保13 1歳 額田郡高須村で出生     12歳

1843 天保14 2歳 両親死亡          13歳

1844 弘化元    3歳 岩瀬家で養育される     14歳

1845   弘化2  4歳                 15歳 伊藤両村に師事

1846 弘化3    5歳               16歳

1847 弘化4  6歳               17歳 柔術師範渡邉に入門

    疱瘡大流行

1848 嘉永元  7歳 論所堤防破壊         18歳 左目負傷

1849 嘉永2     8歳                19歳

1850 嘉永3     9歳 岩瀬啓介死亡         20歳

1851 嘉永4  10歳                21歳 江戸着、大槻・羽倉門下

1852 嘉永5  11歳 岩瀬医院の書生        22歳 昌平学に入る

1853 嘉永6  12歳 早川文啓塾に通う       23歳 謹慎

  米艦隊浦賀に来る

1854 安政元 13歳 早川文啓塾に通う       24歳 父の教授を助ける

1855 安政2 14歳 早川文啓塾に通う       25歳 再度昌平学に入る

1856 安政3 15歳 早川文啓塾に通う       26歳 昌平学に帰属

            曽我耐軒の講義聴く

  吉田松陰 松下村塾開く    

1857 安政4 16歳 早川文啓塾に通う       27歳
                                曽我耐軒の講義聴く
                                沓掛村 伊藤両村塾に入塾

1858 安政5  17歳 沓掛村 伊藤両村塾       28歳

  安政戊牛(ぼご)の大獄

1859 安政6  18歳 名古屋 松本奎堂塾に入塾    29歳 石町 森島てつを娶る
                                伊藤両村死亡

 

  吉田松陰 処刑 

1860 万延元 19歳 松本奎堂 不如学舎塾長   30歳 甲太郎誕生

1861 文久元 20歳 奎堂 完之の上京許さず    31歳 大坂松岡寓居

1862 文久2  21歳 中之郷で医業開業       32歳 淡路に行く

  和宮 降嫁(文久元~2)

  寺田屋騒動

1863 文久3  22歳 咲江(17歳)と同棲     33歳 天誅組総裁
                                                                      8月14日京都脱出  

                       9月25日 鷲家口の戦いにて戦死

 

 

<参考>

 品川弥二郎について・・・織田完之との面識・縁

  織田完之が、師と仰ぐ松本奎堂が亡くなったのち、草莽の志士として、更に江戸(東京)に出でて活躍するに際し、長州藩品川弥二郎との縁がなければ達することは出来なかった。

詳しいことは後述するが、参考までに品川弥二郎に関して概要を記してみる。

天保14年生まれであるので、完之よりも一歳年下である。

松下村塾では、当初吉田松陰の門下生久坂玄瑞の通い番(使い走り)のような仕事をしていた。完之が松本奎堂塾の使い番をしていたのと同じような役目(仕事)であった。

万延~文久にかけて、尊王攘夷を掲げて活躍する草莽の志士が京に集まり、国難に如何に対応すべきか、藩を越えて命を惜しまず活動していた。

久坂玄瑞と松本奎堂は尊王攘夷派(討幕派)の中心的人物であったので、彼ら互いのグループの往来も緊密に取らねばならなかった。

その使い番(使者、使い走り)として、品川弥二郎と織田完之は面識を持ったのであろうと考える。歳も二人とも20歳頃であった。

郷土の偉人 織田完之 No.23: 勤王(草莽)の志士への道(その13) 尊王の志士 松本奎堂(嗚呼 義挙に殉す)・・・完之の活躍:2022.12.19号

<続き>
奎堂 31歳(文久元年)~33歳(文久3年)

1,この期間、奎堂がとった行動

 国難に立ち上がり行動を起こした奎堂の行動を、ここでは詳しく述べることはしない。

奎堂に関しては、『森銑三著作集 第六巻』を読んでいただけると、彼の草莽の志士としての活躍の経緯が(つぶさ)見えてくる

  義挙の背景

文久元年(1861) 昌平黌にて勤王の志を同じくした知友岡鹿門(ろくもん)(仙台藩)が名古屋に来て奎堂を訪ねた。

  ◎世情は将に“風雲”急を告げる事態となっていく。

    その切欠は『皇女(皇妹:孝明天皇の妹)和宮の降嫁』の決行であり、公武一体による幕府の安定基盤の再構築政策に対し、「尊王攘夷」を掲げる“勤王志士”を憤慨させる事態へと推移していった。

   〇「和宮」は文久元年(1861)11月15日江戸城清水門内の清水邸に入り、文久2年(1862)2月11日 婚儀が行われた。

  義挙

   ・・・この時奎堂がとった行動・・・

    幕府が皇妹和宮の御降嫁を強請して天皇の翻してまでも行おうした奸計に憤慨し、国情を憂いて、9月には意を決し妻子と離別したのであった。

    そして大垣を経て京都へと向かった。

  天誅組 殉す

   『完之伝』では、銑三が著した『著作集』を参考として次のように記されている

「文久元年(1861)10月17日 京都に移って尊攘派志士と交遊し、文久3年(1863)大和行幸決定を機に、中山忠光を擁して大和の五条に挙兵し、天誅組を唱え、吉村寅太郎と共にその総裁になったが、鷲家口の戦いで戦死した。織田はこの時にはさきにふれた通り郷土に帰り医業を開いていたので、奎堂の義挙には加わらなかった。」とある。

  織田完之 松本奎堂に師事し国難に走る

この事に関し、『完之小伝』では織田完之の動向を次のように著している。

「安政6年(1859)、名古屋に就き松本奎堂に師事す。時に18歳。是より文学、大に進み、19歳、其塾長となる。又師の意を受けて京師(けいし)に往来し国事に奔走す。のち奎堂、同志吉村寅太郎[土佐の郷士]、藤本鉄石等と共に中山忠光卿を奉じて義兵を大和に挙ぐるに先立ち、予め計画する所あり、其家塾を閉づ。翁、乃ち師に従て京師に登らんことを欲して果さず。」

この文中から察するに、完之は奎堂の最も信頼できる使い番であり、師の意を受けて、数回京にで活躍している勤王の志士のもとに走ったであろう。

  完之 天誅組の義挙に参加せず

完之も勤王家としての自覚を高めていったが、奎堂は完之の上京を許さなかった。

なぜ、奎堂は完之の上京を許さなかったであろうか。

・奎堂が完之の叔父に宛てた手紙によれば、「完之は優秀で研究熱心で探求心も旺盛である。昼夜を問わず勉強に明け暮れてる様子である。更に修行すべく、江戸遊学(奎堂が学んだ昌平校)を勧めますが如何でしょうか?」と書かれていた。

・森銑三が著した『著作集』には、次のように書かれている。

名古屋時代;万延元年の春、鷹洲(完之)が石町の塾にあった時、

堂が鷹洲(完之)に教訓して、「自分は性急だから、遠からず国難に

殉じよう。足下は若い。成長の後に実学を講じて、御国のために(つく)

うと心懸けよ。」といった。

 

奎堂が“完之を非凡で才能豊かな青年であると認め、将来国家のために尽くすように、更に精進して修行せよ“との考えで上京を許さなかった。

完之は、名古屋の塾も閉じられ、勤王家として上京する意も果たせず、止む無く郷里での開業(医者)となったのである。

この時、織田完之は結婚したらしい、(前述)

  完之 勤王討幕派としての人脈

完之は、奎堂に従い(使い番)として、当時の勤王討幕の志士との面識が、以降の完之の人生を左右する大きな要因になったことは間違いない。

奎堂は、特に急進派の長州藩に接近し、久坂玄瑞、高杉晋作は勿論のこと、長州藩主毛利敬親とも面識を持つことができた。

当然勤王討幕派として活躍は、薩摩藩や全国の草莽の志士とも交わうことができたのである。

後述するが、完之と品川弥二郎、大久保利通ら多くの人脈の形成の源ととなった。

 

銑三著作集より

銑三著作集 第六巻 著者 銑三

  1989年3月10日 初版 中央公論社

郷土の偉人 織田完之 No.22: 勤王(草莽)の志士への道(その12) 尊王の志士 松本奎堂(26歳~30歳)との出会い・・生きるべき道を求めて(No.2):2022.11.29号

<前項から続く>

27歳:安政4年(1857)奎堂は京にて頼三樹三郎、梅田雲浜等々らの勤王の志士と気脈を通じ、王政復古実現への志を同じくする者を募るため、吉野方面など近畿各地を回った。

28歳:※安政5年(1858)6月19日「日米修好通商条約」締結

     (孝明)天皇の勅許を得ず、調印・・・※孝明天皇締結を拒否

    ※安政5年(1858)9月13日 戌午(ぼご)の密勅」

     (孝明)天皇が雄藩(御三家)である水戸藩に幕政改革を求める密

勅を下した。

    このような情勢下で、奎堂は頼三樹三郎、梅田雲浜等々と“幕府を倒

    し天皇の権威を恢復するのは、将にこの時“(王政復古)と朝廷に対

戌午(ぼご)の密勅」を出すことに成功。

これらの王政復古・討幕運動の主導者を、当時の大老井伊直弼は容赦

なく捕縛し処刑した。所謂『安政の大獄』である。

      梅田雲浜 捕縛 安政5年(1858)10月13日 

              安政6年(1859)10月9日

      頼三樹三郎 捕縛 安政5年(1858)9月22日 

              安政6年(1859)10月7日

      (奎堂に関係した安政の大獄捕縛者)

    ◎当時奎堂は、大和高田にいたため難を逃れた。

    ・・・未だ王政復古(尊王攘夷)の機は熟してないことを知り、嫌疑を避け刈谷に帰った。・・・

 

2,名古屋時代

29歳:安政6年(1859)3月 名古屋石町にて塾(塾名:不如学舎(ふじょがくしゃ))を開き、近在の若者らを教授した。近辺の秀才の多くが学んだ。

  ◎織田完之が安政6年(1859)夏に入門・・この時完之 18歳!!

   経緯:奎堂の師と同じ伊藤両村に学び、両村の薦めにより奎堂塾に入門

     両村から奎堂の王政復古の志(勤王思想)をきき、完之は高揚した気持であったであろう。

     奎堂から、陽明学の知行合一の理論的・実践的な実体験を元とした指導を受け、国の在り方までも憂いるようになった。

    18歳といえば、人生で最も多感な時期である。人生で最も敏感であり、影響を受けやすい時期である。

    完之は、この多感な時期に性格形成され、人生の分岐点に立ったのである。

30歳:安政7年(1860) 犬山藩士森島右傳の子てつと結婚。

    萬延元年(1860) 長男甲太郎誕生(後の野村幸太郎)

   ◎織田完之(19歳)は、奎堂塾“不如学舎”の塾長となる。近郷近在から集まった才能ある者が学んでいる不如学舎で、完之が塾長となったことは、彼が如何に才ある若者であったかを示した証でもある。

郷土の偉人 織田完之 No.21: 勤王(草莽)の志士への道(その11) 尊王の志士 松本奎堂(21~26歳)・・・生きるべき道を求めて(No.1):2022.11.24号

末の激動期に活躍した草莽の志士を語る上で欠かせない哲学的思考の「陽明学」及び、織田完之の師である伊藤両村が師事した佐藤一斎についても大概を記してきた。

 

今回からは、松本奎堂が御親政実現(王政復古)のため献身的な活躍をし果てるまでの概要と、織田完之が彼に師事し哲学的思考を学んだ過程を綴ってみる。。

<対象範囲>

・碑文:「・・・十八從松本奎堂干名古屋奔走國事・・・」

・完之小伝:「・・・刈谷ノ松本奎堂先生二名古屋二従ヒ、京都二上リ、江戸二下リ、艱難数年二亘医リ、時世ノ推移・・・・・」

 

 1,己の道を模索

両村から学んだ哲学的思考を更に探求すべく奎堂は江戸に遊学し、学んだ国家論を携えて京に向かい、志を同じくする諸士を歴訪した。

しかしこの時点では奎堂の意にあた者は居なかった。

 

1)江戸遊学

21歳:嘉永4年(1851)7月 師伊藤両村の勧めにより江戸に遊学。

22歳:嘉永5年(1852)春 藩の推薦を受けて昌平坂学問所(昌平黌)に入る。

    既に記したが、刈谷藩においても奎堂は達筆であり筆も立ち、更に多くの書物にも通じていたので、昌平黌では諸藩の子弟を集めて教育していた。とくに詩文の面で優れていた。

   奎堂は自由奔放な性格であったので、個性的で先輩に追従することがなかった。

23歳:嘉永6年(1853)寮生と喧嘩して退学になり、郷里の刈谷へ帰った奎堂は過激な『藩政改革案』を藩に提出したが、藩内の反感を買い、一時謹慎を命じられた。

  ◎嘉永6年(1853)6月3日 ペリー来航(浦賀沖)

   この時を境に、幕末から一気に明治維新時まで変革の時代へと突き進むのだ。

24歳;安政元年(1854)学んだ改革論(哲学的思考)を引っ提げて京に行き、自論に賛同してくれる学者や武士たちに説き廻ったが、彼の意に同意するものはなく、再び刈谷に帰った。まだ自分の見識が足りないと痛感したと思われる。

25歳:安政2年(1855)更に学問の研鑽のため、再び江戸昌平黌に入った。ここで詩文掛に任ぜられ、また一方では書生寮の舎長にも命ぜられた。

    この時期奎堂は、「我国体の尊厳に比すれば、聖人孔子ぞ何者ぞ」と絶叫した忠愛の心情が、これからの勤王討幕への壮挙へと繋がっていくのである。

    ・・・・江戸大地震で昌平黌も大被害を受け休学状態となった。

26歳:安政3年(1856)8月奎堂昌平黌に復帰した。

   ◎この頃の世情は、幕府は天子(天皇)の命を奉ぜずして(勅命を得ないで)、ほしいままに(一方的に)条約を締結し、恐れ多くも天皇の意をないがしろにしたのを見て、世論が混乱した。

    奎堂は即日昌平黌をやめ江戸を去り、京へと向かった。

<※奎堂が、国を憂い勤王の志を掲げた“決死の覚悟はこの時から

成ったのであった。昌平黌での知友岡鹿門ろくもん(仙台藩)との別れに「子は吾を知るもの吾死せば請ふ他日我墓に銘せよ」と語った。>

  京では頼三樹三郎、梅田雲浜等々らの勤王の志士と気脈を通じ、近畿各地を回り(吉野方面も)、勤王家(党)を纏めようと活動した。

 

◎織田完之は、この時14~15歳。早川文啓や曽我耐軒に漢学の素読などを学び始めていた時期であった。

※本稿No.17を参照してください。

  • ライブドアブログ