さて、前号にて完之が思想的・精神的つまり生きる支柱・導師として崇拝してきた松本奎堂が、天誅組を組織し国家を憂い、壮絶な戦いというか、皮肉にも決起が早く幕府の追討軍と戦い鷲家口にて戦死してしまった。完之は奎堂の勤王思想を継承し、幕府を倒し世直しを実現すべく、己の力で切り開いていかねばならない立場となった。
◎碑文には次のように記されている。
『元治三年廿三出江戸赴常陸視戦争著常野兵談翌年西遊遭房拘岩國三年明治二年解還』
これからは、この碑文に沿って検証していくこととする。
1,織田完之と松本奎堂との軌跡の比較
歴 年 年齢 織田完之 年齢 松本奎堂
1831 天保2 1歳 刈谷城内の藩邸にて出生
1837 天保8 7歳 父から漢学を習う
1841 天保12 11歳 奥田桐園の門人となる
1842 天保13 1歳 額田郡高須村で出生 12歳
1843 天保14 2歳 両親死亡 13歳
1844 弘化元 3歳 岩瀬家で養育される 14歳
1845 弘化2 4歳 15歳 伊藤両村に師事
1846 弘化3 5歳 16歳
1847 弘化4 6歳 17歳 柔術師範渡邉に入門
疱瘡大流行
1848 嘉永元 7歳 論所堤防破壊 18歳 左目負傷
1849 嘉永2 8歳 19歳
1850 嘉永3 9歳 岩瀬啓介死亡 20歳
1851 嘉永4 10歳 21歳 江戸着、大槻・羽倉門下
1852 嘉永5 11歳 岩瀬医院の書生 22歳 昌平学に入る
1853 嘉永6 12歳 早川文啓塾に通う 23歳 謹慎
米艦隊浦賀に来る
1854 安政元 13歳 早川文啓塾に通う 24歳 父の教授を助ける
1855 安政2 14歳 早川文啓塾に通う 25歳 再度昌平学に入る
1856 安政3 15歳 早川文啓塾に通う 26歳 昌平学に帰属
吉田松陰 松下村塾開く
1857 安政4 16歳 早川文啓塾に通う 27歳
曽我耐軒の講義聴く
1858 安政5 17歳 沓掛村 伊藤両村塾 28歳
安政戊牛(ぼご)の大獄
1859 安政6 18歳 名古屋 松本奎堂塾に入塾 29歳 石町 森島てつを娶る
伊藤両村死亡
吉田松陰 処刑
1860 万延元 19歳 松本奎堂塾 不如学舎塾長 30歳 甲太郎誕生
1861 文久元 20歳 奎堂 完之の上京許さず 31歳 大坂松岡寓居
1862 文久2 21歳 中之郷で医業開業 32歳 淡路に行く
和宮 降嫁(文久元~2)
寺田屋騒動
1863 文久3 22歳 咲江(17歳)と同棲 33歳 天誅組総裁
8月14日京都脱出
9月25日 鷲家口の戦いにて戦死
2,品川弥二郎・・・織田完之との面識・縁
碑文に書かれている完之の軌跡の中で、“品川弥二郎”との係わりが、彼の人生にとって大きな変革をもたらすこととなる。
そこで、少し“品川弥二郎”と完之の縁について触れてみる。
◎織田完之が、師と仰ぐ松本奎堂が亡くなったのち、草莽の志士として、更に江戸(東京)に出でて活躍するに際し、長州藩品川弥二郎との縁がなければ達することは出来なかった。
詳しいことは後述するが、参考までに品川弥二郎に関して概要を記してみる。
天保14年生まれであるので、完之よりも一歳年下である。
松下村塾では、当初吉田松陰の門下生久坂玄瑞の通い番(使い走り)のような仕事をしていた。完之が松本奎堂塾の使い番をしていたのと同じような役目(仕事)であった。
万延~文久にかけて、尊王攘夷を掲げて活躍する草莽の志士が京に集まり、国難に如何に対応すべきか、藩を越えて命を惜しまず活動していた。
久坂玄瑞と松本奎堂は尊王攘夷派(討幕派)の中心的人物であったので、彼ら互いのグループの往来も緊密に取らねばならなかった。
その使い番(使者、使い走り)として、品川弥二郎と織田完之は面識を持ったのであろうと考える。歳も二人とも20歳頃であった。
この二人の偶然ともいえるめぐり逢いが、不思議な縁となり、完之の明治政府での活躍の場となっていくのであった。